1: muffin ★ 2020/07/01(水) 19:03:09.40 ID:Qx0qicSm9
https://dot.asahi.com/dot/2020062300032.html
2020.7.1 17:00 山田宗太朗
♦小室哲哉も岡村靖幸も小林武史も…歌手・渡辺美里が日本音楽界に与えた衝撃 <デビュー35周年秘話>
2020年5月2日に歌手デビュー35年を迎えた渡辺美里。『My Revolution』『恋したっていいじゃない』『サマータイム ブルース』をはじめとした数々の大ヒット曲や、20年連続の西武球場ライブなど、日本の音楽シーンに輝かしい実績を残し、今も多くの人に支持されている特別なアーティストのひとりだ。
渡辺美里が世間に「見つかった」のは1984年。当時高校3年生だった彼女が雑誌『週刊セブンティーン』のコンテストに参加し、最優秀歌唱賞を受賞した時だ。出版社とレコード会社が合同で開催した同コンテストは、モデルやアイドル、女優などを多数輩出する有名コンテストになったが(渡辺美里の同期には工藤静香、国生さゆり、渡辺満里奈などが、先輩には坂口良子や松田聖子などがいた)、渡辺美里の登場によって、それまでにはなかった「歌唱賞」が急遽設置されることになった。
このコンテストがきっかけとなってレコード会社から声がかかった。とはいえ、いきなりデビューが決まったわけではない。はじめは佐野元春のバックコーラスを探していたプロデューサーの目に留まったのだった。ところが、デモテープを撮ったりスタジオ見学をしたりしているうちにバックコーラスの話は自然消滅し、代わりにソロデビューの話がまとまっていったのだという。
中略
■小室哲哉も岡村靖幸も、ここから羽ばたいていった
『My Revolution』があまりにも広く、長く愛されているため、この曲が渡辺美里のスタートなのだと勘違いされることもあるが、本当のはじまりは1985年10月にリリースされた1stアルバム『eyes』である。唇をきゅっと結び力強い眼差しで前を見つめながら前髪を切る独特なジャケットを覚えている人も多いだろう。アートワークは当時19歳だった渡辺美里自身によるアイデアで、U2のアルバム『WAR』を参考にしたらしい。当時からすでに自分をプロデュースする力を持っていたわけだ。
このアルバム、クレジットを見てみると、かなり豪華なメンバーが制作に携わっていたことがわかる。作曲陣に名を連ねるのは、TM NETWORKの小室哲哉と木根尚登、そして岡村靖幸。1985年といえばTM NETWORKは『Get Wild』をリリースしていない、つまり大ブレイクする前だったし、岡村靖幸にいたってはデビューすらしていない。まだ何者でもなく、しかし才能あふれるネクストブレイク寸前だった若者たちがこの名盤に名を連ねているのである。『eyes』への参加をきっかけにTM NETWORKも岡村靖幸も作曲家としてのキャリアをスタートさせ、やがてその経験を自身の制作に還元しブレイクしていった。
彼らに加え、すでにシティポップの代表格であった大江千里やアイドル歌謡を変えたと言われる後藤次利なども作曲や編曲で参加している。アルバム『eyes』は、当時の「今」と「次」が絶妙にミックスされた作品だったと言える。
『eyes』の2年後に発売された3rdアルバム『BREATH』になると、のちにSPEEDのプロデューサーとなる伊秩弘将を作曲家としてデビューさせる。伊秩弘将とのコンビも4thアルバム『ribbon』、5thアルバム『Flower bed』と続いていく。さらには小室哲哉とともにやがて「TK時代」を築いていく小林武史も、8thアルバム『BIG WAVE』から渡辺美里の制作に加わっている。
このように、その後の日本のポップミュージックで中心的な役割を占める多くのキープレイヤーたちが渡辺美里との仕事を通して羽ばたいていったことがわかる。この一点をとってみても、渡辺美里が日本のポピュラー音楽史に与えた影響はかなり大きい。
全文はソースをご覧ください
https://dot.asahi.com/S2000/upload/2020062300032_1.jpg
2020.7.1 17:00 山田宗太朗
♦小室哲哉も岡村靖幸も小林武史も…歌手・渡辺美里が日本音楽界に与えた衝撃 <デビュー35周年秘話>
2020年5月2日に歌手デビュー35年を迎えた渡辺美里。『My Revolution』『恋したっていいじゃない』『サマータイム ブルース』をはじめとした数々の大ヒット曲や、20年連続の西武球場ライブなど、日本の音楽シーンに輝かしい実績を残し、今も多くの人に支持されている特別なアーティストのひとりだ。
渡辺美里が世間に「見つかった」のは1984年。当時高校3年生だった彼女が雑誌『週刊セブンティーン』のコンテストに参加し、最優秀歌唱賞を受賞した時だ。出版社とレコード会社が合同で開催した同コンテストは、モデルやアイドル、女優などを多数輩出する有名コンテストになったが(渡辺美里の同期には工藤静香、国生さゆり、渡辺満里奈などが、先輩には坂口良子や松田聖子などがいた)、渡辺美里の登場によって、それまでにはなかった「歌唱賞」が急遽設置されることになった。
このコンテストがきっかけとなってレコード会社から声がかかった。とはいえ、いきなりデビューが決まったわけではない。はじめは佐野元春のバックコーラスを探していたプロデューサーの目に留まったのだった。ところが、デモテープを撮ったりスタジオ見学をしたりしているうちにバックコーラスの話は自然消滅し、代わりにソロデビューの話がまとまっていったのだという。
中略
■小室哲哉も岡村靖幸も、ここから羽ばたいていった
『My Revolution』があまりにも広く、長く愛されているため、この曲が渡辺美里のスタートなのだと勘違いされることもあるが、本当のはじまりは1985年10月にリリースされた1stアルバム『eyes』である。唇をきゅっと結び力強い眼差しで前を見つめながら前髪を切る独特なジャケットを覚えている人も多いだろう。アートワークは当時19歳だった渡辺美里自身によるアイデアで、U2のアルバム『WAR』を参考にしたらしい。当時からすでに自分をプロデュースする力を持っていたわけだ。
このアルバム、クレジットを見てみると、かなり豪華なメンバーが制作に携わっていたことがわかる。作曲陣に名を連ねるのは、TM NETWORKの小室哲哉と木根尚登、そして岡村靖幸。1985年といえばTM NETWORKは『Get Wild』をリリースしていない、つまり大ブレイクする前だったし、岡村靖幸にいたってはデビューすらしていない。まだ何者でもなく、しかし才能あふれるネクストブレイク寸前だった若者たちがこの名盤に名を連ねているのである。『eyes』への参加をきっかけにTM NETWORKも岡村靖幸も作曲家としてのキャリアをスタートさせ、やがてその経験を自身の制作に還元しブレイクしていった。
彼らに加え、すでにシティポップの代表格であった大江千里やアイドル歌謡を変えたと言われる後藤次利なども作曲や編曲で参加している。アルバム『eyes』は、当時の「今」と「次」が絶妙にミックスされた作品だったと言える。
『eyes』の2年後に発売された3rdアルバム『BREATH』になると、のちにSPEEDのプロデューサーとなる伊秩弘将を作曲家としてデビューさせる。伊秩弘将とのコンビも4thアルバム『ribbon』、5thアルバム『Flower bed』と続いていく。さらには小室哲哉とともにやがて「TK時代」を築いていく小林武史も、8thアルバム『BIG WAVE』から渡辺美里の制作に加わっている。
このように、その後の日本のポップミュージックで中心的な役割を占める多くのキープレイヤーたちが渡辺美里との仕事を通して羽ばたいていったことがわかる。この一点をとってみても、渡辺美里が日本のポピュラー音楽史に与えた影響はかなり大きい。
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https://dot.asahi.com/S2000/upload/2020062300032_1.jpg
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