
1: フォーエバー ★ 2020/05/05(火) 14:17:12.68 ID:f8b4cdbV9
今年還暦のサンプラザ中野くん(左)、パッパラー河合。デビュー以来初の中野サンプラザ単独ライブを企画・構想した
歌手のサンプラザ中野くん(59)が、8月に還暦を迎えるのを記念して、1984年のデビュー以来初の東京・中野サンプラザ単独ライブを企画・構想した。還暦記念のミニアルバム「感謝還暦」には新曲「中野サンプラザよ」も収録。単独公演への思いや還暦前の心境、同会場との深い縁を語った。また、爆風スランプ時代のエピソードや代表曲「Runner」(88年)の誕生秘話も明かした。(加茂 伸太郎)
ミニアルバムの撮影のために訪れた中野サンプラザ。入り口の印象的な赤階段を目の前にし、中野くんは「戻ってくるんだな」と感慨に浸った。
コロナ禍が終息し、同所での単独公演が実現すれば、デビュー以来初めて。8月の還暦と合わせ、ダブルのお祝いになる。「(デビュー時は)アルバム3枚出せたら御の字だと思っていた。それがこんなに長く(音楽の世界に)いられるとは」としみじみ。「(9月に還暦の同級生の)パッパラー河合さんとは15歳、高校1年の時に出会ってから45年間、一緒に活動できた。めでたいな、ありがたいなという感じ。いまだに健康であることも素晴らしい」
デビューから35年以上が過ぎたが、あえて同所でのライブは避けてきた。「当時のCBCソニーの偉い方が『サンプラザ中野が、中野サンプラザでコンサートをやるのは、ひねりがなさ過ぎる。やらないで取っておこう』と。それが不文律みたいになって、やらないで来てしまいました」
芸名の由来になった中野サンプラザとの縁は深い。人生で初めて訪れたライブ会場。高校の同級生とダブルデートした大学1年の冬、見たのはチューリップだった。80、81年に出場したインディーズ時代のバンドコンテスト「EastWest(EW)」も同じ会場だった。
優秀賞に輝いた81年のEWの打ち上げで、芸名が誕生した。「自己紹介の順番が回ってきてドキドキ。隣にいた女性に『何て言ったら受けると思います?』って聞いたんです。その女性が機転の利く方で、『本名が中野でしょ。会場が中野サンプラザだから、ひっくり返して言ったら大ウケよ』って。実際に言ったら、大ウケで(笑い)。この時に芸名が決まりました」
爆風スランプを語る上で欠かせないのが、「Runner」。その年のNHK紅白歌合戦に初出場するなど、バンドが飛躍した一曲だ。「天才!たけしの元気が出るテレビ」(日本テレビ系)で使用され、応援歌として定着。幅広い世代に親しまれるが、もともとは、89年に脱退したベースの江川ほーじん(58)に向けて制作されたものだ。
「当時、人を応援しようという意図はなかったですね。我々としては、バンド内のストーリーを歌にしただけ。私小説なんです」
発端は、江川が「やめます」と離脱を告げたこと。協議の末、半年後の脱退で落ち着いた。「『ヒット曲を出さなきゃ終わるぞ』と、ずっと言われていた。一生懸命やっていたけど、なかなか結果が出なかった。バンドは複数人。売れないとお金が続かないし、クビか解散を迫られる。残り半年しかオリジナルメンバーでできなくなり、『ほーじんがいるうちにヒット曲を出すぞ!』となりました」
ギターのパッパラー河合(59)、ドラムのファンキー末吉(60)、江川で100曲ほど制作。末吉の曲が採用され、中野くんが詞を付けた。「それまでは、音楽業界で生きるために変化球を投げ続けることが、爆風スランプの存在意義だと思っていた。でも、この時は違った。直球勝負をしようと思ったんです」
サビの「走る走る 俺たち」から書き始めた。「何を書こうと考えた時、バンド自身をランナーに例えようと思った。なぜランナーか、俺が高校の時、走るの苦手なのに3か月だけ陸上部にいたから。歌い出しの『雨を避けた ロッカールームで』も、陸上部のロッカールームを想定して書きました」
スタジオに持っていき、メンバーに演奏を依頼。歌い終わった後、中野くんはある光景を目にする。「歌詞は見せていなかったと思う。泣き声が聞こえたので、ふと見ると、河合が泣いていた。『詞の内容が伝わった。いける!』って思いました。『いつかたどり着いたら 君に うちあけられるだろ』。これには、ほーじんは爆風を去るけど、音楽はやめないだろ? オマエが去っても、俺たちも音楽を続ける。違うバンドになるけど、お互いの音楽をやっていこうぜ―という思いが詰まっています」
5/5(火) 14:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200505-05030129-sph-ent
歌手のサンプラザ中野くん(59)が、8月に還暦を迎えるのを記念して、1984年のデビュー以来初の東京・中野サンプラザ単独ライブを企画・構想した。還暦記念のミニアルバム「感謝還暦」には新曲「中野サンプラザよ」も収録。単独公演への思いや還暦前の心境、同会場との深い縁を語った。また、爆風スランプ時代のエピソードや代表曲「Runner」(88年)の誕生秘話も明かした。(加茂 伸太郎)
ミニアルバムの撮影のために訪れた中野サンプラザ。入り口の印象的な赤階段を目の前にし、中野くんは「戻ってくるんだな」と感慨に浸った。
コロナ禍が終息し、同所での単独公演が実現すれば、デビュー以来初めて。8月の還暦と合わせ、ダブルのお祝いになる。「(デビュー時は)アルバム3枚出せたら御の字だと思っていた。それがこんなに長く(音楽の世界に)いられるとは」としみじみ。「(9月に還暦の同級生の)パッパラー河合さんとは15歳、高校1年の時に出会ってから45年間、一緒に活動できた。めでたいな、ありがたいなという感じ。いまだに健康であることも素晴らしい」
デビューから35年以上が過ぎたが、あえて同所でのライブは避けてきた。「当時のCBCソニーの偉い方が『サンプラザ中野が、中野サンプラザでコンサートをやるのは、ひねりがなさ過ぎる。やらないで取っておこう』と。それが不文律みたいになって、やらないで来てしまいました」
芸名の由来になった中野サンプラザとの縁は深い。人生で初めて訪れたライブ会場。高校の同級生とダブルデートした大学1年の冬、見たのはチューリップだった。80、81年に出場したインディーズ時代のバンドコンテスト「EastWest(EW)」も同じ会場だった。
優秀賞に輝いた81年のEWの打ち上げで、芸名が誕生した。「自己紹介の順番が回ってきてドキドキ。隣にいた女性に『何て言ったら受けると思います?』って聞いたんです。その女性が機転の利く方で、『本名が中野でしょ。会場が中野サンプラザだから、ひっくり返して言ったら大ウケよ』って。実際に言ったら、大ウケで(笑い)。この時に芸名が決まりました」
爆風スランプを語る上で欠かせないのが、「Runner」。その年のNHK紅白歌合戦に初出場するなど、バンドが飛躍した一曲だ。「天才!たけしの元気が出るテレビ」(日本テレビ系)で使用され、応援歌として定着。幅広い世代に親しまれるが、もともとは、89年に脱退したベースの江川ほーじん(58)に向けて制作されたものだ。
「当時、人を応援しようという意図はなかったですね。我々としては、バンド内のストーリーを歌にしただけ。私小説なんです」
発端は、江川が「やめます」と離脱を告げたこと。協議の末、半年後の脱退で落ち着いた。「『ヒット曲を出さなきゃ終わるぞ』と、ずっと言われていた。一生懸命やっていたけど、なかなか結果が出なかった。バンドは複数人。売れないとお金が続かないし、クビか解散を迫られる。残り半年しかオリジナルメンバーでできなくなり、『ほーじんがいるうちにヒット曲を出すぞ!』となりました」
ギターのパッパラー河合(59)、ドラムのファンキー末吉(60)、江川で100曲ほど制作。末吉の曲が採用され、中野くんが詞を付けた。「それまでは、音楽業界で生きるために変化球を投げ続けることが、爆風スランプの存在意義だと思っていた。でも、この時は違った。直球勝負をしようと思ったんです」
サビの「走る走る 俺たち」から書き始めた。「何を書こうと考えた時、バンド自身をランナーに例えようと思った。なぜランナーか、俺が高校の時、走るの苦手なのに3か月だけ陸上部にいたから。歌い出しの『雨を避けた ロッカールームで』も、陸上部のロッカールームを想定して書きました」
スタジオに持っていき、メンバーに演奏を依頼。歌い終わった後、中野くんはある光景を目にする。「歌詞は見せていなかったと思う。泣き声が聞こえたので、ふと見ると、河合が泣いていた。『詞の内容が伝わった。いける!』って思いました。『いつかたどり着いたら 君に うちあけられるだろ』。これには、ほーじんは爆風を去るけど、音楽はやめないだろ? オマエが去っても、俺たちも音楽を続ける。違うバンドになるけど、お互いの音楽をやっていこうぜ―という思いが詰まっています」
5/5(火) 14:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200505-05030129-sph-ent
【還暦迎えるサンプラザ中野くんが語った、「Runner」誕生秘話と中野サンプラザとの深い縁。】の続きを読む